上杉鷹山と細井平洲 並行年表
1728年(享保13年)― 1822年(文政5年)/全 17 項二人の生涯を同じ時間軸に並べると、 師弟が交わった瞬間と、離れていた年月の長さ が見えてきます。平洲が江戸に出た年に鷹山が生まれ、十三年後に二人は出会いました。
平洲 鷹山 二人が交わる 時代背景
- 1728 享保13年
細井平洲、尾張国知多郡平島村に生まれる
6月28日、農家の二男として生まれた。平島村はいまの愛知県東海市にあたる。武家ではなく農村の出であることは、のちに平洲が説く学問の性格に深く関わっている。
- 1735 享保20年
- 1737 元文2年
- 1743 寛保3年
京都に遊学
- 1744 延享元年
- 1745 延享2年
- 1751 宝暦元年
平洲、江戸へ出て私塾を開く/この年、上杉治憲が生まれる
平洲は二十三歳で江戸に出た。同じ年、のちに弟子となる上杉治憲(鷹山)が高鍋藩主秋月家に生まれている。二人の距離は、このときまだ十六年ある。
- 1753 宝暦3年
伊予西条藩主の師となる。塾を嚶鳴館と命名
私塾に「嚶鳴館(おうめいかん)」と名づけた。嚶鳴とは鳥が互いに鳴き交わすことで、学ぶ者どうしが響き合う場を意味する。
- 1764 明和元年
平洲、米沢藩の上杉治憲の師となる
三十七歳の平洲が、十四歳の治憲の師として迎えられた。江戸の米沢藩邸での教育がはじまる。この出会いが、のちの米沢藩の改革につながっていく。
- 1767 明和4年
治憲、十七歳で米沢藩主となる
藩を継いだ時点で、藩には推定二十万両の借財があった。現代の価値でおよそ二百億円にあたるとされる。財政の破綻した藩を、十七歳が引き継いだことになる。
- 1777 安永6年
- 1781 天明元年
- 1783 天明3年
- 1783 天明3年
天明の大飢饉
全国的な飢饉が東北を中心に甚大な被害をもたらした。米沢藩では餓死者を出さなかったと伝えられ、莅戸善政らが編纂した『かてもの』が備えとして機能した。約八十種の野草について、見分け方と調理法を記した手引きである。
- 1796 寛政8年
鷹山、関根で平洲を郊迎する
9月6日、平洲三度目の米沢来訪。鷹山は郊外の関根まで自ら出迎え、新築まもない普門院に案内して長旅をねぎらった。十数年ぶりの対面だった。藩主が師を城外まで迎えに出たこの場所は、のちに国の史跡に指定される。
出典:米沢市「普門院」
- 1801 享和元年
- 1822 文政5年
この年表について
年号と出来事は、東海市および米沢市の公式ウェブサイトに記載されているものを典拠としています。 伝承として広く語られていても、公式の記述で確認できない事柄は載せていません。 空白の年があるのは、そこに何も無かったからではなく、確認できていないためです。