鷹山と平洲上杉鷹山と、その師・細井平洲

弟子

上杉鷹山

うえすぎ ようざん/宝暦元年(1751年)― 文政5年(1822年)/諱は治憲

十四歳で細井平洲に学び、十七歳で米沢藩主となった。 引き継いだのは、推定二十万両の借財を抱えた藩である。 その年のうちに、神前で退路を断つ誓詞を書いた。

何をした人か

高鍋藩主秋月家に生まれ、米沢藩上杉家の養子となった。宝暦元年の生まれで、 その年はちょうど、のちの師である平洲が江戸に出て私塾を開いた年にあたる。

明和元年(1764年)、十四歳のとき、江戸の米沢藩邸で平洲の教えを受けはじめる。 三年後の明和4年、十七歳で家督を継いだ。当時の米沢藩は、 領地の減少に対して家臣の数が多く、凶作も重なって財政が破綻していた。 借財は推定二十万両、現代の価値でおよそ二百億円とされる。

藩主となったその年の9月6日、鷹山は自ら筆をとった倹約誓詞を白子神社に納めている。 改革を怠れば神罰を受けてよい、という内容である。誓う相手は家臣ではなく神で、 罰を受けるのは民ではなく自分だった。大倹約令は9月18日に江戸で発表されたが、 国元の重臣に反対され、鷹山は繰り返し誓詞を奉納して協力を求めた。

米沢市によれば、鷹山は自らの生活費を大幅に減らし、一汁一菜など質素な暮らしぶりの手本を示した。 支出削減の一方で、成島焼・笹野一刀彫・相良人形といった工芸品の生産を奨励し、 漆・桑・楮の百万本植え立て事業によって蝋燭・養蚕・和紙産業の基盤を整えた。 米沢織については加工技術を導入して絹織物生産を高度化させている。 紙・塩・茶・刃物・薬種などを領内で生産し、自給自足の体制をつくろうとした。

天明3年(1783年)の天明の大飢饉では、米沢藩は餓死者を出さなかったと伝えられる。 莅戸善政らが編纂した『かてもの』——約八十種の野草について見分け方と調理法を記した手引き——が、 備えとして機能した。

天明5年(1785年)2月、三十五歳で隠居し、家督を治広に譲る。 このとき藩主の心得として渡したのが「伝国の辞」である。 国も民も君主の私物ではなく、君主のほうが国と民のために立てられている—— 主従の向きを逆に定義したこの三か条は、以後、米沢藩の基本方針となった。

鷹山の言葉

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平洲の言葉もあわせて読む

鷹山の歩みと時代

  1. 1751宝暦元年 平洲、江戸へ出て私塾を開く/この年、上杉治憲が生まれる
  2. 1764明和元年 平洲、米沢藩の上杉治憲の師となる (鷹山 14歳)
  3. 1767明和4年 治憲、十七歳で米沢藩主となる (鷹山 17歳)
  4. 1777安永6年 「刈り上げ餅」の逸話 (鷹山 27歳)
  5. 1783天明3年 天明の大飢饉
  6. 1796寛政8年 鷹山、関根で平洲を郊迎する (鷹山 46歳)
  7. 1822文政5年 上杉鷹山、没する (鷹山 72歳)

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鷹山ゆかりの地

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出典