師
細井平洲
ほそい へいしゅう/享保13年(1728年)― 享和元年(1801年)
尾張国知多郡平島村、いまの愛知県東海市の農家に生まれた。 九歳で村を出て、十五歳で京都、十七歳で長崎まで学びに行き、二十三歳で江戸に私塾を開く。 三十七歳のとき、十四歳の上杉治憲——のちの鷹山——の師となった。
どんな人だったか
武家の出ではない。農家の二男である。この一点が、平洲の学問の性格をほとんど決めている。 身を立てるための教養ではなく、暮らしを立て直すために使える学問でなければ意味がない—— その立場は、生涯変わらなかった。
十六歳で折衷学派の中西淡淵に入門している。折衷学派とは、特定の学派に偏らず、 諸説から実際に役立つものを採る立場である。平洲が「学問と今日とは二途にならざるように」 と説くようになる素地は、この師から受け継いだものとされる。
十七歳では長崎まで足を延ばし、中国語を学んだ。書物を訓読するだけでなく、 原語で読もうとしている。学び方そのものが、当時の学者の型から外れていた。
江戸で開いた塾は「嚶鳴館」と名づけられた。嚶鳴とは鳥が互いに鳴き交わすこと。 師が一方的に説く場ではなく、学ぶ者どうしが響き合う場という含意がある。 天明3年(1783年)には、生国である尾張の藩校・明倫堂の初代督学に就いた。 農村出身の学者が、御三家筆頭の学問の長になっている。
平洲の言葉
13 件・出典つきの解説へ- 学、思、行、相須つ 学び、考え、実行する。この三つがそろって、はじめて学んだことになる。
- 学問と今日とは二途にならざるように 学問と現実が、別々のものになってしまわないように。
- 学問の目的は暮らしをよくすること 学問の目的は知識の獲得ではなく、暮らしをよくすること。
- 嚶鳴 鳥が互いに鳴き交わすように、学ぶ者どうしが響き合う場をつくる。
- まず親が善いことをして見せる 子は親をまねる。だからまず親が実際にやって見せる。
- 善悪を見分ける力を教える 善悪を見分ける力を教えずに、善くしろと命じても意味がない。
- 苗木のうちに心を尽くす 幼いうちに手を尽くしておけば、あとが楽になる。
- 無理に曲げれば役に立たない木になる 思い通りに曲げて育てれば、どんな素質があっても損なわれる。
- 大木の陰となって風雨から守る 育てる側の役目は、形を決めることではなく、風雨から守ること。
- 先施 まず自分の方から働きかける。相手の出方を待たない。
- 思い上がりをなくし譲り合う 思い上がりを捨て、譲り合う。それで心が通じ、事が運ぶ。
- 君主たるものは民の父母でならねばならぬ 君主は、民にとって父母のような存在でなければならない。
- 勇なるかな勇なるかな 勇気だ、勇気だ。勇気がなくて、どうして事を行えようか。
平洲の歩み
- 1728享保13年 細井平洲、尾張国知多郡平島村に生まれる (平洲 0歳)
- 1735享保20年 観音寺の義観和尚に学ぶ (平洲 7歳)
- 1737元文2年 名古屋に出て学ぶ (平洲 9歳)
- 1743寛保3年 京都に遊学 (平洲 15歳)
- 1744延享元年 中西淡淵に入門 (平洲 16歳)
- 1745延享2年 長崎へ遊学し中国語を学ぶ (平洲 17歳)
- 1751宝暦元年 平洲、江戸へ出て私塾を開く/この年、上杉治憲が生まれる (平洲 23歳)
- 1753宝暦3年 伊予西条藩主の師となる。塾を嚶鳴館と命名 (平洲 25歳)
- 1764明和元年 平洲、米沢藩の上杉治憲の師となる (平洲 37歳)
- 1781天明元年 尾張藩主に講義 (平洲 53歳)
- 1783天明3年 尾張藩校・明倫堂の初代督学となる (平洲 55歳)
- 1796寛政8年 鷹山、関根で平洲を郊迎する (平洲 69歳)
- 1801享和元年 細井平洲、江戸で没する (平洲 74歳)
平洲ゆかりの地
- 上杉治憲敬師郊迎跡 寛政8年(1796年)9月6日、鷹山が師・平洲を自ら出迎えた場所。
- 普門院 郊迎のあと、鷹山が平洲を案内して長旅をねぎらった寺。
- 東海市立平洲記念館・郷土資料館 平洲の生地が設けた記念館。生涯と学問を伝える。
- 松岬神社 上杉鷹山を主祭神とし、細井平洲も合祀されている。
- 観音寺 平洲が七歳で義観和尚に学んだと伝わる寺。
- 細井平洲誕生地 享保13年(1728年)、平洲が生まれた尾張国知多郡平島村の地。
- 八柱神社 東海市の平洲散策路に案内板が置かれた社。
- 西方寺 東海市の平洲散策路に案内板が置かれた寺。
- 米沢藩上杉家江戸藩邸跡(桜田上屋敷) 平洲が鷹山を教えた江戸藩邸。桜田門のすぐそば、いまの霞が関にあった。
- 嚶鳴館(江戸の私塾) 平洲が江戸に開いた私塾。宝暦3年(1753年)に嚶鳴館と命名。