江戸のゆかりの地
東京都/ゆかりの地 3 か所師弟が出会った場所。米沢藩邸と、平洲の私塾・嚶鳴館があった。
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米沢藩上杉家江戸藩邸跡(桜田上屋敷)
よねざわはん うえすぎけ えどはんていあと
平洲が鷹山を教えた江戸藩邸。桜田門のすぐそば、いまの霞が関にあった。
明和元年(1764年)、三十七歳の平洲は十四歳の治憲(鷹山)の師として米沢藩に迎えられた。その教育が行われたのが江戸の藩邸である。
山形県の資料によれば、上杉家の上屋敷は桜田門外に置かれ、いまの千代田区霞が関一丁目、法務省旧本館の敷地にあたる。赤レンガの建物の一角に記念碑が建つ。
「君主たるものは民の父母でならねばならぬ」という教えが説かれたのも、江戸の藩邸だったと米沢市は伝えている。米沢の改革の出発点は、米沢ではなく江戸にあったことになる。
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米沢藩上杉家 中屋敷跡(麻布)
よねざわはん うえすぎけ なかやしきあと
上屋敷とは別に、麻布に置かれていた上杉家の屋敷。
港区によれば、麻布台一丁目の飯倉片町交差点付近には、江戸時代、米沢藩上杉家の中屋敷があった。
大名家は江戸に複数の屋敷を構えるのが常で、上屋敷は当主と政務の場、中屋敷や下屋敷は隠居や世子の住まい、あるいは避難先として使われた。上杉家も例外ではない。
現在この一帯に往時の面影はないが、鷹山が江戸で過ごした年月の背景として押さえておきたい場所である。
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嚶鳴館(江戸の私塾)
おうめいかん
平洲が江戸に開いた私塾。宝暦3年(1753年)に嚶鳴館と命名。
平洲は宝暦元年(1751年)、二十三歳で江戸に出て私塾を開いた。宝暦3年、伊予西条藩主の師となった年に、この塾を「嚶鳴館」と名づけている。
嚶鳴とは鳥が互いに鳴き交わすことで、学ぶ者どうしが響き合う場を意味する。
平洲の没後三十三年、天保6年(1835年)に門人の上田雄次郎がその和文の遺稿をまとめ、『嚶鳴館遺草』六巻として刊行した。東海市によれば、吉田松陰と西郷隆盛も愛読したという。
なお、この塾の正確な所在地について、確認できる公的な記述を見つけられていません。ここでは場所を推測で示さず、事実として分かっている範囲だけを記します。現在は東海市の平洲記念館に、講義室として「嚶鳴館」の名が受け継がれています。