嚶鳴
おうめい
鳥が互いに鳴き交わすように、学ぶ者どうしが響き合う場をつくる。
平洲が江戸で開いた私塾の名。宝暦3年(1753年)の命名。
嚶鳴は、鳥が互いに鳴き交わすさまを言う語である。平洲は二十五歳のとき、江戸の私塾にこの名をつけた。
師が一方的に説き、弟子が受け取る場ではなく、学ぶ者どうしが声を掛け合って響き合う場という含意がある。塾の名前ひとつに、その人の学問観が出る。
平洲の没後三十三年にあたる天保6年(1835年)、門人で西条藩士の上田雄次郎が、平洲の和文の遺稿をまとめて『嚶鳴館遺草』六巻として刊行した。巻二に「民の表」「教学」「政の大体」「農官の心得」、巻五に「つらつらぶみ」君の巻・臣の巻などが収められている。
東海市によれば、この『嚶鳴館遺草』は吉田松陰と西郷隆盛も愛読したという。尾張の農村に生まれた学者の言葉が、幕末の人々にまで届いていたことになる。